日本時間2025年8月10日未明、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の大西卓哉宇宙飛行士(49)ら4名を乗せた米スペースX社の宇宙船「クルードラゴン」が、約5か月にわたる国際宇宙ステーション(ISS)でのミッションを終え、地球に無事帰還しました 。カプセルはパラシュートを開いて大気圏を降下し、日本時間午前0時33分過ぎ、目標としていたアメリカ・カリフォルニア州沖の太平洋上に着水 。NASAの商業乗員輸送プログラムにおいて、初めてカリフォルニア沖への着水であり、民間企業の輸送ミッションの安全性や柔軟性を証明したものにもなります。
ISSからの離脱から約17時間半の旅を終えたクルードラゴンは、待機していた回収船によって速やかに引き揚げられました 。ハッチが開かれ、クルーが一人ずつ姿を現すと、大西飛行士は元気な様子で立ち上がり、手を振ってミッションの成功をアピールしました 。
大西飛行士は今年3月15日に米国フロリダ州のケネディ宇宙センターから打ち上げられ、148日間に及ぶ長期滞在に臨んだ 。この滞在中、彼は日本人として3人目となるISS船長の大役を務め、将来の月・火星探査を見据えた数々の科学実験や、日本の実験棟「きぼう」の能力を最大限に引き出すための活動に従事しました。
日本人船長の重責―宇宙における日本の新たなリーダーシップ
今回のミッションにおける最大のハイライトは、大西飛行士が日本人として3人目となるISS船長(コマンダー)に就任したことである 。2014年の若田光一飛行士、2021年の星出彰彦飛行士に続くこの就任は、日本の有人宇宙開発における信頼と実績の証左に他なりません。
ISS船長の役割は決して名誉職ではなく、その最も重要な責務は、火災や急減圧といった緊急事態が発生した際に、クルーとISS全体の安全を確保するため、現場の最高責任者として指揮を執ることにあります。
大西飛行士の経歴は他に類を見ない強みとなっています。彼は全日本空輸(ANA)の旅客機パイロットとして、日々刻々と変わる状況下で乗客の安全を第一に運航してきた経験を持っています 。さらに、2020年からはJAXAのフライトディレクタとして、「きぼう」の運用管制に地上から携わり、ISSのシステムを熟知してきました 。このパイロットとしての危機管理能力と、フライトディレクタとしてのシステム知識の融合は、ISS船長という役割に理想的な資質をもたらしたといえます。彼の就任は、日本が単に「きぼう」という優れたハードウェアを提供するだけでなく、ミッションの成否を左右する「極めて重要な人的専門知識」を提供するパートナーへと進化したことを国際社会に強く印象付けました。
軌道上の実験室―宇宙の成果を地球と未来へ
「きぼうにできるぜんぶを」というミッションのキャッチフレーズが示すように、大西飛行士は148日間の滞在中、日本の実験棟「きぼう」の能力を最大限に活用し、200以上の科学実験や技術実証に取り組みました 。その成果は、地上の私たちの生活を豊かにするだけでなく、人類がさらに遠い宇宙を目指すための礎となるにちがいありません。
人体の謎を解き明かす―地球と宇宙での健康のために
ミッションの科学的目標の中核をなしたのが、人体の仕組みの根源に迫る生命科学実験だ。特に「細胞の重力センシング機構の解明」は、宇宙生物学における長年の謎に挑むもの。微小重力環境に滞在する宇宙飛行士が経験する筋萎縮や骨量減少は、地上の加齢現象と酷似しているといいます 。この実験では、細胞がどのように重力を感知し、身体の変化を引き起こすのか、そのメカニズムを分子レベルで解明することを目指しています。ISS内で人工的に地球と同じ1Gの環境を作り出す遠心機を使い、微小重力下の細胞と比較することで、重力の影響だけを正確に抽出 。この研究は、将来の宇宙飛行士の健康を守る対策だけでなく、地上の高齢化社会が直面する骨粗しょう症や筋力低下といった課題の解決にも繋がる大きな可能性を秘めています 。
>>「細胞の重力センシング機構の解明」(代表研究者:金沢工業大学 曽我部正博)
また、創薬研究の分野でも大きな進展があったといえます。微小重力下では、地上よりも高品質なタンパク質の結晶を生成できることが知られています 。大西飛行士は、がん治療薬に関連する実験や、様々な病気の原因となるタンパク質の結晶化実験(JAXA PCG)に従事しました 。結晶の精密な立体構造を解明することは、そのタンパク質の働きを阻害する新薬を効率的に設計する「構造ベース創薬」の鍵となります。過去の宇宙実験では、歯周病治療薬の開発に繋がった例もあり、今回の成果も新たな治療法の開発を加速させることが期待されます 。
月、そして火星へ―未来の探査を拓く技術
大西飛行士のミッションは、人類の活動領域を月や火星へと拡大する「アルテミス計画」の先も見据えています。そのために不可欠な技術の実証も重要な任務でした。
その一つが、固体材料の燃焼現象を調べる「FLARE」実験です。無重力空間では、地上とは全く異なる形で物が燃えます。この現象を詳しく調べることで、将来の宇宙船における火災安全基準を確立し、より安全な材料を選択することが可能になります 。地球から遠く離れた宇宙船内での火災は致命的であり、この研究は未来の宇宙探査の安全性を根底から支えるものになります。
また、長期滞在に必須の生命維持技術として、新型の二酸化炭素除去装置(DRCS)の実証も行われました。これは、クルーが呼吸で排出するCO2を、特殊な固体吸収材を用いて空気中から取り除くシステム 。地球からの補給が困難な月や火星へのミッションでは、こうした高効率で再生可能な生命維持システムが不可欠となります。
>>有人宇宙探査に向けた二酸化炭素除去の軌道上技術実証 DRCS(JAXA)
さらに、自律型船内カメラロボット「Int-Ball2」の技術実証準備も進められた 。これは宇宙飛行士の作業を記録・監視する時間を削減し、より重要な業務に集中させるためのロボットであり、地球との通信に大きな遅延が生じる将来の火星探査において、クルーの自律性を高めるための重要な一歩となる 。
地上400kmからの声―次世代に届けた宇宙への夢
大西飛行士のミッションは、科学実験だけに留まらず、地球上の人々、特に次世代を担う若者たちと直接対話し、宇宙への関心を喚起することも、彼が自らに課した重要な役割だったのではないかと言えます。その最も象徴的な活動が、アマチュア無線を通じてISSと地上を結ぶ「ARISSスクールコンタクト」でした。
ARISS交信:アマチュア無線で繋がった宇宙と教室
2025年4月2日、埼玉県立狭山工業高等学校(コールサイン:JA1YUT)
ミッション中、最初に行われたこの交信イベントは、同校の無線部が中心となり、狭山市周辺の小中学生が参加して実現したものです 。午後6時7分、生徒が英語で呼びかけると、大西船長から「聞こえます、どうぞ」と応答があり、さらに大西船長は「日本語で大丈夫ですよ」と語りかけ、生徒たちの緊張をほぐしてくれました 。途中、ISSを追尾するアンテナに不具合が生じ、手動での操作に切り替わるというハプニングもあったが、これもまた宇宙開発の難しさを伝える貴重な体験となりました。高校生からは「無重力になった瞬間の感覚はどうでしたか?」「ISS内でお湯を沸かすことは可能ですか?」という質問がされ、小学生からは「もしあなたがスーパーヒーローだったら宇宙でどんな事をしますか?」という夢ある質問まで飛び出しました。
2025年8月1日、大阪・関西万博会場(コールサイン:8K3EXPO)
帰還直前に行われたこのイベントは、万博会場の特設ステージから公開で行われ、万博の公式イベントとして大きな注目を集めました 。公募で選ばれた18人の子どもたちが、「体験運用」という制度を利用して、一人ずつ大西船長に質問を投げかけました 。子どもたちからは「宇宙に匂いはありますか」「宇宙でくしゃみをしたらどうなりますか」といった地球とは違った環境での未知の体験に関する質問が相次ぎ、それに対する回答に会場に集まった人たちも注意深く耳を傾けていました。

これらのイベントは、JAXAが宇宙開発という壮大な国家プロジェクトを支えるための、国民的な理解と支持を育むための戦略的な取り組みという意味合いもあります。大西飛行士という親しみやすいメッセンジャーを通じて、子どもたちの心に直接宇宙への夢を届けることで、将来の科学者や技術者、そして宇宙開発を支える未来の国民を育てているのです。
多様なイベントで広げた宇宙の輪
大西飛行士の対話の輪は、アマチュア無線だけに留まらず、6月30日には石破茂内閣総理大臣らと交信し、日本の宇宙教育への貢献や将来の探査計画について議論を交わしました 。また、ANAとの共催イベント「感動!!宇宙航空教室」では、子どもたちからの「ストレスへの対処法は?」「苦手な勉強はどう乗り越えた?」といった真剣な問いに、自身の経験を基に「苦手なことを一生懸命頑張った経験が、パイロット、そして宇宙飛行士になる夢に繋がった」と語りかけ、挑戦することの重要性を伝えました 。
さらに、自身のX(旧Twitter)アカウントでは、角運動量保存の法則を利用して空中で姿勢を変える動画を投稿し、科学の面白さを分かりやすく伝え、科学ファンやアニメファンの間で大きな話題を呼びました 。
これらの多岐にわたる活動は、宇宙開発が一部の専門家だけのものではなく、国民一人ひとりの夢や希望と繋がっていることを示しています。
人と人の絆―軌道上で託された次へのバトン
ミッションの最終盤、8月2日にJAXAの油井亀美也飛行士がISSに到着したことは、今回の滞在を締めくくる象徴的な出来事になりました 。大西飛行士と油井飛行士は2009年に選抜された「同期」であり、軌道上で盟友を迎えた瞬間を、大西飛行士は「万感の思いだった」と振り返っています 。

Image Credit :NASA
その後、軌道上で行われた共同記者会見では、大西飛行士から油井飛行士へ、日本の有人宇宙開発の歴史が詰まった「たすき」を渡すかのように、象徴的な任務の引き継ぎが行われました 。大西飛行士は「私の後を引き継いでくださるのが油井さんということで、全く心置きなくこのISSを離れることができる」と全幅の信頼を寄せていました 。この一連のやり取りは、日本の宇宙飛行士チームが個人の力だけでなく、組織としての継続性と層の厚さを持っていることを内外に強く示す、巧みなパブリック・ディプロマシーでもありました。これは、将来の月探査など、より複雑で長期的な国際協力プロジェクトにおいて、日本が信頼できるパートナーであり続けることをアピールするものでもありました。
今回のミッションは、スペースX社という民間企業の宇宙船によって、打ち上げから帰還まで一貫して行われました 。その成功は、商業有人宇宙飛行が特別なイベントから「日常」へと移行しつつあることを改めて証明し、今後の宇宙経済圏の拡大に向けた重要なマイルストーンとなりました 。
「長期滞在中、応援してくださった皆さま、本当にありがとうございました」。帰還に際し、大西飛行士はXに感謝の言葉を投稿 。船長としてISSの安全を守り抜き、数々の科学的成果を上げ、そして次世代に夢を届けた148日間。彼が持ち帰った成果と経験は、日本の宇宙開発を新たな高みへと導き、次世代の米田あゆ飛行士、諏訪理飛行士らが続く道をさらに切り拓く、確かな一歩となりました 。